20000715

資料

政治再編へ小沢一郎の策略(93年)


 総選挙を経て、支配層は保守二大政党制によって危機を乗り切ろうと策動を強めている。この策略をうち破ることは、当面の重要な政治闘争である。自民党単独政権が崩壊した九三年当時、小沢一郎らによる策動は、今後の政治再編の動きをみる上で非常に参考になるので、資料を掲載する。


「社会党左派対策は、土井さんを衆院議長にすることに」

 平成五年七月十八日の総選挙の結果は、どんな政権をつくるかはお前たちの知恵比べでやれ、というのが天の声だったと思う。自民党は過半数には遠かったが、二百二十三人当選させる善戦をしたからだ。新生党は五十五人、公明党は五十一人だが、社会党は選挙前の議席のほぼ半分の七十議席に転落した。
 社会党の「一人負け」の結果に、投票日の翌十九日、非自民の政権を目指した社会党も公明党も民社党も、それに連合も自民党の単独政権継続で仕方がないという雰囲気になってしまった。
 この時、小沢さんから、
 「この数字だったら、非自民の連立政権はできる。テレビなどで自民単独政権で仕方がないという発言はやめるように各党に伝えろ」
 という指示があった。(中略)
 小沢さんも懸命に口説き、二十二日の深夜になって、細川さんが首班指名に立つことを決めた。小沢さんから連絡が入った。
 「細川さんがやる決意をしてくれた。武村もやりたがったので、話がこじれそうになったよ」
 「政治家なら誰でも総理になりたいでしょう。総理になれるチャンスがあったのに、断ったのはあなたぐらいではないですか」
 とポスト海部の話をすると、苦笑いしていた。翌二十三日に羽田さんからも了解をもらった。連立政権づくりには二つの不安定要素があった。一つは新党さきがけがどういう方向に舵を切るか、それから社会党の左派グループがどうなるか、ということだ。自民党に後藤田さんを擁立する動きがあり、これに武村さんが関係していた。
 結局、さきがけは日本新党とともに、二十三日、自民党と非自民連立側の両方に「政治改革政権の提唱」という文書を提出して、政治改革の姿勢をただした。そこで自民が回答を断ったため、非自民の連立政権に参加することになった。
 一方、社会党左派対策は、土井たか子さんを衆議院議長にするということで対応することになった。二十四日の日曜日夜遅く、赤坂プリンスホテルで連合の山岸章さん、社会党の山花貞夫、田辺誠の現・前委員長、小沢さんの四人に私が陪席して会談した。
 そこで細川首班を了解してもらい、小沢さんが土井議長の話を出そうとしたところ、山岸さんが、
 「議長は田辺君では、どうだろうか」
 と本人の前で勧めた。結局、土井さんの話ができないまま散会してしまった。小沢さんは、
 「田辺さんに、今の時期はやめたほうがいい、という説明をしなければならない。早い機会に説明してきてくれ」
 と私に言う。
 「しろ、と言われればするが、その前に、山花さんに土井さんを口説かせるほうが先ですよ。田辺さんの気持ちが邪魔になるようでしたら、私が説明に行きます」
 ということで、一週間を費やした。
 山花さんは一生懸命、土井さんを口説いたが難航した。問題は田辺さんの説得であり、山岸さんに秘書を通して、
 「田辺さんを議長にするには時期が悪い、親交があったから金丸問題で追及される。田辺さんを説得してほしい」
 と伝えると、山岸さんから、
 「いや、そんなこと俺に言わせるな。政治家のやることだ。お前行け」
 と逃げられた。
 私は土曜日の暑い日、ちょうどその日、土佐の田舎から送ってきたミカン箱を持って前橋まで行った。田辺さんに快くわかってもらい、
 「小沢さんと君は、そんなに自分のことを思ってくれるのか」
 と逆にほめられた。田辺さんは議長や入閣にとらわれていない、ということを小沢さんに報告した。一方、山花さんの土井さん説得も成功し、衆議院議長に初の女性、土井たか子さんが決まった。
 七月二十七日に「連立政権樹立に関する合意事項」と「八党派覚え書き」がまとまり、各党派代表が署名し、非自民の連立政権発足が決定した。そして八月五日に召集された特別国会で、細川さんが首班に指名され、社会党、公明党、新生党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社民連、参院の会派・民主改革連合の非自民八党派連立の細川政権が九日に誕生した。(以下略)

『小沢一郎との20年』より
平野 貞夫(参議院議員)著・プレジデント社


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